浅間山

岸田國士

浅間山書籍情報

底本:「岸田國士全集5」岩波書店
   1991(平成3)年1月9日発行
底本の親本:「浅間山」白水社
   1932(昭和7)年4月20日発行
初出:「改造 第十三巻第七号」
   1931(昭和6)年7月1日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:kompass
校正:門田裕志

浅間山

岸田國士

浅間山の麓

萱の密生した広漠たる原野の中に、白樺、落葉松などの疎林が点在し、土地を区劃するための道路が、焼石の地肌をみせて縦横に延びてゐる。
緩やかな斜面に沿つて、粗末な小舎(カツテージ)が一棟。斜面の尽きるあたりに、水量の乏しい渓流。温泉鑿掘のための櫓(やぐら)が、その岸に立つてゐる。
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この物語の中に現れる人物

丹羽州太
同 二葉   その娘
時田思文   郵便局長
同 則子   その娘
小瀬川とね  州太の同棲してゐる女
新井 務   州太の助手
菰原献作   人夫頭
青木利元   二葉の婚約者
郵便配達夫
その他人夫大勢
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     一

五月の末――昼すぎ。
小舎(カツテージ)の入口。
正面のテラスに、籐椅子が一脚出してあり、窓越しに事務所風の部屋の内部が見える。
郵便局長時田思文(五十三)が自転車を押しながら現れる。テラスに上り、窓から部屋の中をのぞきこむ。

時田  なんだ、だあれもゐないのか。(入口の戸を開け)おとねさん、みんな留守かい。(返事がないので、一つ時躊躇してゐるが、やがて、テラスの上を歩きまはる。急に女の声色を真似て)おや、お珍しい。昨夜(ゆふべ)もあんたのお噂をしてたところですよ。(椅子にかけ、調子を変へ)わしの噂をかね。(苦りきつて)ちえツ! それがお世辞かい。(窓の中に、さも誰かゐて、それに話しかけるやうに)時に、大将、温泉の方はどうです。ちつとは、熱い湯が出ますかい。出る。よろしい。わしも、五百坪ばかり、土地を分けといて貰はうかな。坪弐円として、十円づゝの月賦ならよからう。

入口の窓が開く。小瀬川とね(三十二)が顔を出す。

とね  おや、お珍しい。何時いらしつたの。
時田  わしが来る時は、みんなどつかへ隠れてるのかね。
とね  あんた、お一人……? 変だね。今、話声が聞えたと思つたけれど、耳のせいか知ら……。こゝへ来てから、よくそんなことがあるんですよ。静かすぎるからでせうね。
時田  静かすぎる、それやほんとだ。山鳩の声にでも返事をするつていふのがこの土地の笑ひ話だ。お前さんも、よく辛棒をするぢやないか。
とね  決心ひとつですね。まあ、中へはひつて一服お喫ひなさいまし。
時田  今日はまた忙しいだらう。二葉さんは、やつぱり二時の下りかね。
とね  よく御存じですね。
時田  郵便局をやつとつて、そんなことがわからんでどうする。おい、変な顔色するもんぢやない。中は見ないだつて、手紙の来かたでわかるよ。からだの具合でも悪いのかな。
とね  さあ、どうですか。
時田  かう云つちやなんだが、お前さんからすれや、ちつと具合が悪いな。娘さんの手前、万事、今迄通りつていふわけにも行くまい。大将はどうするつもりか知ら……。
とね  あたしや、どうだつていゝんですよ。ゐてわるけれや、帰るとこぐらゐあるんですから……。
時田  それやさうさ。待つてる人だつてあらうさ。小諸のおとねさんつて云や、わしや、子供の時から名前を聞かされてゐたよ。
とね  (笑つて)さうですか。(しんみり)今の若い人には、丸つきり、かういふ苦労はわからないでせうからね。(間)旦那は、この間うちから、二葉二葉つて、それや大変なんですよ。(間)その娘さんつていふ人が、家(うち)ん中をやつてくれさへすれや、あたしは、まあ、用のないからだですもの。
時田  (わざと素気なく)そこんところは、わしどもにやわからん。
とね  なんか急ぎの御用ぢやないんですか。
時田  ゐどころはわかつてるのかい。
とね  川下に、また新しく湯の出るところがみつかつたらしいんですよ。今日は、そこでせうと思ひます。
時田  今掘つてるところは駄目かね。
とね  その日その日で、わからないんですよ。雲をつかむやうな話ですわ。
時田  この夏までにや、なんとかしたいもんだがなあ。
とね  二葉さんつていふのは、随分、しつかりした娘さんらしいですね。
時田  らしいね。
とね  写真でみると器量もいゝし……。
時田  うちの娘も会ひたがつてるつて、さう云つておくれよ。なにしろ、こんなところで、友達はなし、お互、話相手にはなるだらう。
とね  ほんとに、お宅のお嬢さんもお気の毒ですわね。
時田  なに、あれはあれでいゝのさ。子供がゐれば、亭主に死なれても、存外平気なもんだね。たゞ東京へだけは、もう一度出てみたいつて云つてるよ。どうにもならん話だがね。

この時、丹羽州太(五十)が、四五人の男を従へて帰つて来る。

州太  時田さん、今度こそ掘り当てたよ。
時田  はあ。
州太  地下三尺で、もう三十八度といふ温度です。その辺の砂は、硫黄の結晶で真黄色だ。川の水からは湯気が立つて、魚があふ向けになつて浮いてるですよ。
時田  この前もさうだつたね。
州太  いや。この前のところなんか、硫黄の分量だけでも比較にならない。(男の一人に)おい、新井、こゝへ砂を出してみせろ。

新井務(三十)は、空壜につめた砂を紙の上にひろげる。

州太  あ、さうさう。(時計を出してみて)献作、お前、早く荷馬車の支度をして、駅へ行つてくれ。急がんと間に合はんぞ。

菰原献作(四十五)は、麦藁帽を脱いで頭を下げる。それから、とねの方に近づき、

献作  そいぢや、車に敷く座蒲団をお貸しなすつて……。
とね  痛いといけないから、二三枚持つてくといゝわ。(奥へはひる)
州太  (時田に)どうです。見事でせう。
時田  見事には見事だが、問題は、湯が出るか出ないかだ。まあ、しかし、希望はもてるね。
州太  希望どころぢやない。これこそ事実といふやつです。(急に思ひ出して)おい、新井、昨日の杭打ちを続けてやれ。道路に添つたところを、みんな片づけろ。三人も連れて行けばいゝだらう。

新井は、そこにゐる男たちを連れて去る。とねが座蒲団をもつて出て来る。献作、それを受け取る。

献作  旦那はおいでになりませんか。
州太  そんな暇はない。お前一人で大概わかるだらう。若い娘が、さう幾人もこんなところへ降りる筈がないよ。

献作去る。とねが、その後を見送る。

州太  おい、そんなところに立つてないで、早く、ビールでも出したらどうだ。
とね  ビールはもうみんなになりましたけれど……サイダアぢやいけませんか?
時田  わしはなんでも結構。(間)だが、どつちみち、この夏の間には合はないね。
州太  (とねに)わしには水をいつぱい……。(とね去る)この夏は、まあ、土地を見せるだけにして置くんです。かういふ仕事は、あせつちやいかんです。なにしろ、もうちつと景気が出なけれや……。
時田  おほきに……。だが、こいつは当てにならないしね。
州太  それがですよ。温泉が出ると出ないとでは、大変な違ひですからね。なに、いよいよ温泉が出るつていふことになれや、これこそ、軽井沢と草津とを一と所に集めたやうなもんでせう。
時田  軽井沢はとにかく、草津の湯つてものは、さう何処からでも出るもんぢやなしね。
州太  さうですとも。これで、いろいろ計画をしてゐるんですが、日本で初めての試みとして、あの山のスロープを利用して、グライダアをやつてみようと思ふんです。
時田  なんだね、それは……。
州太  発動機無しの飛行機ですよ。夏のスポーツとしては絶好のもんです。
時田  それもいゝが、先づ土地を売るんだね。そして、金持ちをうんと吸収しなさい。金持ちといふもんは、何かつていふと、手紙だ、電報だ。今の調子だと、切手代の上りが、県の三等局をひつくるめて、びりから二番目だよ。
州太  どうも、困るのは、いろいろ逆宣伝をする奴がゐることです。浅間の爆発なんて、新聞も大袈裟に書きますからね。
時田  それもさうだが、あんたと日疋さんとの間が面白くなくなつて、向うぢや、この土地へ金を注(つ)ぎ込むことに、そろそろ厭気がさし出してるつていふやうな噂を聞いたが、そんなことはあるまいね。
州太  まあ、わたしからは、なんにも云はずに置きませう(暗い顔をする)人の金で仕事をする人間の苦労も察して下さい。

とねがサイダアを盆にのせて来る。

とね  どうです、中におはひりになつちや……。
州太  出資者の日疋君にも、よくこの話はしてあるんですが、わたしも、これが自分の最後の仕事だと思つてゐますし、これから先十年、いくら金を儲けてみたところで知れてゐますからね。それより、幾分でも、特色のある事業として、世間にも認められるやうなことがしたいんです。
時田  (とねに)そこへ置いといて下さい。勝手にいたゞくから……。(とね、窓の上に盆を置いて去る)金といふもんは儲けられるだけ儲けようとしなけりや、結局、損をすることになる。あんたの云ふことはよくわかるが、棄てる金があるんでなけりや、人のための仕事なんて、まあ、できつこないね。
州太  それも理屈です。わたしは、これまで、いろんな仕事に手を出して、一つも、満足な結果を得てゐない。あせればあせるほど蹉跌だらけです。一生、金の後を追ひまはしてゐるやうなもんでした。これで、娘の将来さへ安心ができるやうにしておけば、あとは、世間の老人並に、花いぢりかなんかしてゐればいゝんです。
時田  いやに悟つたやうなことを云ひなさるが、あんたの顔には、まだ、野心勃々と書いてある。山で云へば火山さ。油断はならないよ。
州太  さうでせうか。(笑ひながら)まあしかし、さう見えても一向差支へはありませんがね。
時田  雪平の上には、今年もまた五十軒から別荘が殖えるつてね。
州太  法経大学村でせう、あそこのシステムもいゝにはいゝが、わたしはわたしのシステムでやりますよ。あれの真似をしたと思はれるのがいやですからね。
時田  あ、さうさう、序だから、郵便を持つて来た。日疋さんからもなんかあつたつけ。(郵便物を渡す)
州太  (いちいち裏返してみて、そのうちの一通を開封する)
時田  日疋さんもしばらく見えないが、どうしてゐなさるか知ら……。
州太  (それには答へず、黙読を続ける)
時田  (手持ち無沙汰さうに立ち上り)おや、今日は、煙が丸で出てない。またひと暴れするんぢやないかな。
州太  ……。
時田  今年の山開きには、わしも久し振りで登つてみようと思つとるんだが……。
州太  ……。
時田  時に、この前頼んどいた石楠花(しやくなげ)は、まだ手にはひらんかね。
州太  電報を一つ打ちたいんだが、帰りに頼みます。
時田  日疋さんへかね。よろしい。文句だけ云ひなさい。住所はわかつとる。
州太  ちよつと書きませう。
時田  簡単なことなら覚えてるよ。「オンセンデタスグコイ」かね。
州太  (黙つて部屋にはひり、頼信紙に文句を書きつけて、出て来る)
時田  (受けとつて読む)――「キカイウツスヒトヨコセ」ツイデニ……ツイデニ……これやなんだね。あゝ、さうか、わかつた。なるほど、はたでみてるよりは、経費(かゝり)が大きいわけだね。(サイダアをコツプに注いで飲む)今日はね、丹羽さん、実は、あんたに少し頼みたいことがあつて来たんですがね。
州太  わたしに……? はあ……。伺つてみませう。
時田  なに、つまらんことなんだが、わしんとこの娘さ。御承知のやうな事情で、今、手許に置いてあるんだが、何時までもあのまゝぢや可哀想だし、なんとかせにやならんと思つとる。そこで、ひとつ、あんたは顔も広いし、そのうちに、心当りがあつたらどんなところでもいゝ、是非世話をしてやつていたゞけたらと、昨夜も婆さんと話し合つた次第だ。どうでせう、おやぢの口から云ふのも可笑しいが、誰がみても、二十八とはみえない若作りではあるし、子供さへこつちへ引取ることにすれば、初婚だと云つても疑ふものはなからうと思ふ。それはまあ、よろしいやうにお委せするとして、早い話が、日疋さんのやうな方でもだね、万一、奥さんを探してらつしやるなんていふ話があつたら、無駄でもいゝから、あんた、そばから、ひと言、耳打ちをして下さらんか。――うん、さうか、それや、却つて、さういふ女の方が面白い、なんていふことにならんとも限らんからね。あの方は、まだ独身だつたね。
州太  独身になつたといふ話は聞きませんよ。
時田  すると、もうなにかね。奥様がおいでかね。
州太  まあ、さうのやうですね。
時田  そいつは、しまつた。
州太  自分の娘を片づけなけれやならん男が、余所の娘さんをお世話するなんていふことは、無論覚束ない芸当だとは思ひますが、しかしまた、伺つておいて、何かのお役に立つかも知れません。
時田  いや、おほきに。こちらは別に、望みが高いといふわけでもないんだから、まあいゝが、あんたんとこの二葉さんは、そこへ行くと、大分、あゝでもなし、かうでもなしだらうな。
州太  (黙つて時計を出して見る)
時田  ――お父さん、今日は是非、二葉さんつていふ方を見て来て頂戴ねつて、わしんとこの娘、余程楽しみにしてると見えて、出かけにさう云ふんでね。もう少し、お邪魔をさして貰はう。おほかた、着いた時分だね。
州太  (耳を澄まし)あの音がさうでせう。少し遅れましたね。
時田  あんた、忙しけれや、どうぞわしにかまはずに……。
州太  それぢや、ちよつと、失礼します。(部屋にはひり、卓子に向ふ)
時田  (しばらくぢつとしてゐるが)わしも途中まで迎ひに行つてこう。(さう云ひながら自転車を引つ張つて去る)

やがて、とねがテラスに現れる。

とね  (窓の上の盆を片づけながら)局長さんは、もう帰つたんですか。
州太  ……。
とね  遅いやうですね。
州太  ……。
とね  もう、あたしに、返事もして下さらないんですか。
州太  お前のさういふ気持が、おれには、やり切れないんだ。なにもかもわかつてる。黙つてゝくれ。
とね  あんたは、無理な人ね。かういふとき、あたしは、どうすればいゝのか教へておくんなさいよ。昨夜(ゆふべ)からそれを訊(き)いてるんぢやありませんか。――お前がいゝと思ふやうにしろ、こんなことぢやわかりませんよ、あたしには……。二葉さんの前で、あたしは、一体、なんなんです。おつ母さんでもないでせう。そんなら、女中ですか。それならそれでかまひませんよ。あたしは、なににでもなります。
州太  だから、事実ありのまゝでいゝぢやないか。
とね  ほんとに、いゝんですか。でも、あんたは、そのことを一番心配してるんぢやありませんか。あたしに隠したつて駄目ですよ。この二三日、そんなら、どうして、あたしに対する態度を、がらつと変へちまつたんです。娘さんの方に気を取られてつて云へばそれまでかも知れないけれど、あたしにや、もつとあんたの深い気持がわかるつもりですよ。
州太  ひがむのはよせ。
とね  いゝえ、ひがみなんかぢやありません。あたしは、たゞ、幾度も云ふやうに、二葉さんに会つて、中途半端な口の利き方をするのがいやですからね。娘なら娘、お嬢さんならお嬢さん、さういふところをはつきりさせたいんです。
州太  その、どつちでもなければ仕方がない。
とね  ぢや、お友達でいゝんですか。それとも姉妹(きようだい)……?
州太  まあ、そんなところさ。
とね  さういふ関係で、二葉さんは承知しますか。
州太  承知するもしないもなからう。
とね  あんたは、それで、どうもないんですね。
州太  どうもないよ。
とね  ほんとですね。
州太  うるさいな。
とね  余計な苦労をして、損しちまつた。
州太  何がだい。
とね  あんたが、二葉さんに気兼ねだらうと思つてよ。
州太  気兼でなくもないがね。
とね  それ御覧なさい。
州太  だからと云つて、今更、お前を女中扱ひにも出来まいぢやないか。
とね  うれしいわ。
州太  その代り、しつかり頼むよ。つまらんところで、おれに恥をかゝせないでくれ。
とね  どういふところ……?
州太  考へたらわかるだらう。
とね  わからない。
州太  娘の眼に、おれが道楽者に見えても困るからな。
とね  はつきり云つて頂戴よ。
州太  もう、その話はよせ。おれは今、非常に六ヶ敷い問題を考へてるんだ。子供を裁くのは、なぜ親でなければならんかといふ問題だ。おれは、今、親でありながら、子供になつてみてゐる。さうすると、娘の二葉が、実は、娘のやうな気がしないんだ。丸で母親のやうな気がする。この気持は、ちよつとお前にはわかるまいが、それやしみじみとした、嬉しいとも悲しいともつかん気持だ。もうぢき、あいつが此処へ帰つて来て、われわれ二人を不審らしく見くらべるだらう。その時、おれたちは、なにも云ふまい。あいつは、きつと、万事を察しるだらう。おれたちは、そつと、あいつの顔色を見よう。おれは、あいつの眼から、すべての色を読むことができる。若しそれが、憤りか蔑みの色だつたら、おれは、手をついて、あいつに赦しを乞ふつもりだ。
とね  ……。
州太  お前には、おれの過去といふものを、まだ話したことがない。あいつの母親は、あいつが生れるとすぐに、おれたちを捨てゝ行衛を晦ましたのだ。いや、晦ましたわけではない。おれには、今、その女が、何処で何をしてゐるかさへわかつてゐるんだ。
とね  ……。
州太  おれが今、なぜこんな話をして聞かせるかと云へば、あいつが今日、この家の中へはひつて来るまでに、それだけのことはお前に知つておいて貰ひたいからだ。あいつが女学校を卒業すると間もなく、おれは、裸一貫に借金を背負ふからだになつた。あいつは、自分で、食ふ道を探し出した。おれがこの仕事をはじめるまで、丸三年、あいつは、親から一銭の小遣も貰つてゐない。
とね  ……。
州太  去年の春、おれは、久々で、あいつに晴着を買ふ金を送つた。それと一緒に、おれも、二十五年振りに、お前といふきまつた女を手に入れたわけだ。
とね  手に入れたはひどいでせう。
州太  手に入れたはひどいか。そんなら取消さう。
とね  取消さなくつてもいゝわよ。
州太  ぢや、どうしよう。

州太は晴れやかに笑ひながら、テラスに姿を現す。山鳩がしきりに鳴く。

とね  (突然、前の方を指さし)あれ、さうでせう。
州太  ほう。自転車の護衛がついてるぜ。
とね  お姫様のお成りですもの。
州太  荷馬車の上でパラソルは洒落てるね。(間)
とね  献さんが大真面目で馬をぶつてるわ。(間)
州太  笑つてやがる。
とね  なんとか合図をしておあげなさいよ。(間)
州太  (聞えないふりをして)なんだ、あの黒い四角な箱は……。(間)
とね  丈が随分高いわね。ちよつと、断髪か知ら……。

遠くで、「たゞいまあ」といふ快活な女の声。州太は、機械的に走り出ようとするが、思ひ直して、そこに踏み止る。立つても坐つてもゐられないやうな気持を、強ひて抑へてゐる様子がありありと見える。

     二

翌朝。
谿流に莅んだ温泉鑿掘の現場。――櫓、番小屋。
酒樽を水槽とし、その中に筧の水が落ち込んでゐる。
洗面所、洗濯場などの簡単な設備。
斜面の稜線から浅間の頂がのぞいてゐる。
新井務が顔を洗ひ終つて、その場を立去らうとすると、州太が、歯を磨きながらどてら姿で現れる。無言の会釈。

州太  (呼びとめて)おい、飯を食つたら、駅へ行つて、畳屋へ電話をかけてみてくれ。それから、序に、牛肉を二斤ばかり頼んで来い。
新井  承知しました。僕は、なんなら、番小屋へ寝てもいゝんですが…………。
州太  (口をすゝぎ)部屋はあるんだから、かまはないさ。
新井  あれはどうしませう、印刷屋の方は…………。今日中に区劃割の地図だけでも刷(す)つとく方がいゝと思ふんですが……。
州太  あゝ、その方も急いでくれ。お前もちつと忙しすぎるな。(顔を洗ひながら)そのうちに、現場の方は、人を一人いれよう。
新井  それより……(声を落とし)今、こんなこと云つちやなんですけれど、水道の木管は、あいつ、どうにかならないでせうか。去年の代金を渡さなけれや、後を寄越さないつて云つて来てるんですが。

その時、番小屋の裏から、二葉(二十四)がひよつこり姿を現す。朝日を顔いつぱいに受けて、明るく笑つてゐる。

州太  (新井に)その話は、あとでしよう。(二葉に)よう、もう起きてるのか。どうだ、寒くはなかつたか。
二葉  いゝえ。今、その辺をずつと歩いて来たとこなの。いゝところね。
州太  気に入つたかい。
二葉  なんだか、想像と丸で違ふんですけれど、想像よりは、ずつと大きな、伸び伸びとした景色ね。
州太  これでも、やうやく、人間が住める場所にしたんだ。来年の夏は、あの上の方に、ずつと別荘が建つ。東京の銀座とまでは行くまいが……。自動車も二三台は置くつもりだ。
二葉  来年の夏つていふと、随分間があるわね。
州太  それや、お前、未開から文明へ遷るためには相当の年月がかゝるよ。その代り、それだけのことをやつてしまへば、わしらも、夏だけ此処にゐて、あとは東京でなりなんなり暮せるわけだ。見といで、お前にも好きなやうなことをさせてやるから……。もうひと辛棒だ。
二葉  好きなことつて、あたし、今のまゝで結構よ。それに、あたし……。(さう云ひかけて、番小屋の前のベンチに腰をおろす)
州太  どうした。
二葉  ある人と結婚する約束をしたの。

長い沈黙。

州太  それで……。もつと詳しい話を聴かうぢやないか。
二葉  その人、まだ学校へ行つてるのよ。家はちやんとしてるらしいの。市会議員にもなつたことがあるんですつて、お父さんは……。でも、学校を卒業しないうちは、結婚なんか許してくれないでせう。来年の三月までよ、それも……。家の方で変にとるといけないから、勤めなんかよして、しばらくお父さんのそばにゐてくれつて、その人、あたしに頼むもんだから、さうすることにしたの。随分、いろいろ考へたのよ。それや、愛してくれてることはたしかなの。家で許してくれなけれや、そん時は、断然、飛び出しちまふつて、それほど真剣なの。
州太  大丈夫かい、こんどは……。前のやうに、また、金持へ養子に行つちまふ男ぢやないのかい。
二葉  あん時こそ、あたし、どうかしてたのよ。まだ二十一だつたんですもの。
州太  専門はなんだ。
二葉  法科から文科に変つたんですつて……。社会学でせう。
州太  学校を出て、どうするつもりなんだ。
二葉  今時、自分の思ふやうな口があるもんですか。お父さんの関係してる会社へでも、使つて貰はうつて云つてるわ。それや、その方が悧巧よ。あたし、無闇に野心家ぶつてる男、嫌ひなの。(間)あの蓄音機ね、山ん中で退屈だらうからつて、あの人がくれたのよ。

長い間。

州太  ふむ、さうか。で、もう約束をしてしまつたんだね。
二葉  えゝ。
州太  そんなら、もう、なんにも云ふことはないさ。わしに相談をしなかつたのが、少し手落ちだが、何れにしても結果はおんなじだらう。わしの、たつた一つの楽しみは、お前に、すばらしいお婿さんを見つけてやることだつた。しかしまあ、お前が自分で見つけたのなら、それはそれでもいゝさ、すると、お前は、今、先々のことで、なんにも心配はないんだね。
二葉  自分だけのことなら、心配なんか、ちつともしてませんわ。
州太  すると、わしの方のことが、心配だつていふのかい。
二葉  ……。
州太  今度こそは大丈夫だよ。去年から、少しづゝでも、お前んところへ小遣を送つてゐるが、あれはちつとも無理をして送つてゐるわけぢやない。この調子なら、お前の嫁入の仕度ぐらゐなんでもないさ。恥かしくないだけのことはしてあげられるつもりだ。場合によつては、お前たち二人のために、手頃な別荘を建てゝやつてもいゝぜ。今から、その辺で、此処と思ふ場所を探しといたらどうだ。
二葉  話がよすぎるわ。
州太  さう思ふだらう。ところが、運の向いて来るつていふのは不思議なもんで、わしにも夢だとしか思はれないことがある。この機械だつて(櫓を指さし)十二万円も出して亜米利加から取り寄せたんだ。四十何万坪、ちよつと五十万坪ばかりの土地が、唯みたいな値で手にはひる。それが、今、どんなに安く売つても、坪二円……。温泉附なら、その十倍といふ相場だ。資金の方は、日疋君が、いるだけ出すと云つてくれる。今の暮しだつて、もつと派手にすれば出来ないこともないが、わしの趣味と良心が、それを許さないだけだ。
二葉  ほんとによかつたわね。かういふことが、何時かなくつちや嘘だわ。あたし、自分だけが幸福なんぢやないかと思つて、こゝへ来るまで、随分気が気ぢやなかつたのよ。こんな淋しい山の奥で、お父さんが汗だらけになつて働いてらつしやるんだと思ふと、それだけで涙が出さうだつたわ。しばらくでもお側にゐて、できるだけお手伝したり、元気をつけてあげたりしようと思つて来たの。
州太  それや無論、お前が側にゐてくれゝば、お父さんも元気が出るさ。
二葉  でも、あたし、ほんたうは、そんな孝行娘の真似なんかしなくつてすめば、その方がありがたいわ。自分だけで、空想を楽しんだり、お父さんを少し怒らしたりする方が好きなんですもの。
州太  お父さんは怒らないよ。
二葉  なにをしても……?
州太  うん。
二葉  なにを云つても……?
州太  うん。
二葉  珍しいお父さんね。
州太  何か云ひたいことがあるんだらう。
二葉  それや、おほありよ。
州太  云つて御覧。(娘の側に近寄り、その顔を見下ろす)
二葉  (無意識に立ち上り、父の視線を避けるやうにして)あのね……あの女の方、どういふ方……?
州太  おとねつていふ女か。(間)お前はなんだと思ふ?
二葉  あたしに云はせるの? ずるいわ……。
州太  おほかた察しがつくだらう。わしは、お前に、なんにも隠さない。(間)その通りだ。
二葉  結婚なさるおつもり?
州太  はじめは、そんなつもりぢやなかつた。今でも、そんなことは考へてない。しかし、お前が勧めるなら、結婚してもいゝ。

長い間。

二葉  それだけのことがわかれば、もういゝのよ。
州太  それだけのことが、どうして知りたかつたんだ?
二葉  さうね、好奇心よ、きつと。
州太  好奇心……? そんな風に誤魔化さなくつてもいゝ。わしは、お前の前で告白をするが、あの女とわしとの関係は、お前たちが想像もつかないやうな、俗つぽい、だらしのない関係だ。あれは小諸で芸者をしてゐた女だ。いろいろ苦労をした揚句、商売を止めたいといふから、わしも今、独り身ではあり、引取つて世話をすることにしたんだ。向うも、男なら、わしと限つたわけでもあるまいし、こつちでも、あれでなけれやならんといふほど、面倒な気持はない。こんなことを、お前が知つたつてなんにもならんが、世間には、さういふ例がいくらもある。わしも、この年で、しかも、お前の眼の前で、こんな生活を続けたくはないんだが、今更どうも、致し方がない。お前に不愉快な思ひをさせてすまんが、こゝはひとつ、大目にみてくれ。
二葉  あたしに、そんな気兼ねをなさらなくつていゝことよ。人間は、何時だつて自分に克てないことがありますわ。
州太  それがわかつてくれゝばありがたい。だから、お前は、飽くまでもこの家の女主人だ。誰にでも遠慮なく振舞ふがいゝ。
二葉  あの方にも、さう云つておあげになるといゝわ。あたしと、あの方と、どんな風に遠慮なく振舞ひ合ふか、お父さん、見てらつしやいね。女同志は、世間でいふほどうるさいもんぢやなくつてよ。
州太  お前にはかなはんよ。まあ、よろしくやつてくれ。もうぼつぼつ飯の支度ができてる時分だ。あつちへ行かないかい。(歩き出す)
二葉  もう少しかうしてたいの、あたし……。浅間がいゝ色ね、今朝は……。
州太  そのうちに、一度、登つてみるか。
二葉  賛成ね。その用意に、靴も持つて来てるのよ。

州太の姿が消える。
二葉は、そのまゝそこに腰をおろしてしまふ。今迄の晴れやかな瞳に、なんとなく憂鬱な色が浮ぶ。
鶯が啼いてゐる。
葱を入れた笊を持つて、とねが降りて来る。

二葉  早くお起ししてすみません。
とね  とんでもない。今朝は、どうしてだか寝坊をしちまつて……。何時も、今頃は、とつくに朝御飯がすんでるんですよ。
二葉  (皮肉でなく)それぢや、お寝坊をさしてすみません。
とね  (笑ひながら)あらまあ、こんだ、どう云つたらいゝんでせう。こゝは、水が不自由でしてね。(葱を洗ひはじめる)一日に何度も、下へ降りて来なくつちやならないことがあるんですよ。早く水道が引けるといゝんですけどね。
二葉  明日から、お勝手のお手伝ひをしますわ。今日一日、休暇を頂戴ね。
とね  休暇……? あゝ、お休みですか。えゝえゝ、いくらでもあげますとも……。今迄、水仕事なんかなすつたことはないんでせう。
二葉  どういたしまして……。父と二人つきりの時は、なんでもやりましたわ。胡瓜もみなんかさせて御覧なさい。手に入つたもんよ。
とね  いやだ。今夜は、そのつもりでゐたのに……。
二葉  こんなところで、雪でも降つたら買物はどうなさるんですの。
とね  軽便は止つちまひますしね。仕方がないから、あるもんで我慢するんですよ。今年の冬なんか、お米がきれさうで、さんざ気を揉みましたよ。
二葉  お米がきれたら、どうするんでせう。
とね  荷馬車が通へばですけれど、さもなけりや、餓ゑ死ですわ。でも、それまでには、誰か、なんとかしてくれるでせう。
二葉  安心してらつしやるのね。
とね  男つて、さういふ時には、わりに役に立つもんですよ。
二葉  ほんとね。あなたつて、面白い方……。あたし、好きよ。
とね  (更めて、相手の顔を見る)
二葉  失礼だつたら、御免なさいね。
とね  失礼なもんですか。さう云つて貰へば、これでも嬉しいんですからね。あたしみたいな女にでも、若い時があつて、好きなものは好き、嫌ひなものは嫌ひと、はつきり云つちまへた時代があつたんですもの。今は、何を云つても、人がそのまゝに取つてはくれませんけど、あんたゞけには、ほんとのことがわかつて貰へさうな気がしますわ。
二葉  大変なことになつたわね。あたしは、それほど物わかりがいゝんぢやないのよ。たゞ、人つていふものを、そんなに怖がらないだけ……。無遠慮だと思ふ人は、さう思へばいゝんだわ。その代り、おせつかいもしないことよ。
とね  姑さんにしてみたいね。
二葉  なつたげるわ。
とね  そこにゐると、水が跳ねますよ。(間)あたしや、東京つていへば四ツ谷しきや知らないんだけど、あつちへいらしつたことあつて……。
二葉  四ツ谷の何処でせう。
とね  もう、かれこれ十年以上になりますからね。それも、おほかた病院で暮しちまひましたよ。
二葉  おからだ、お弱いの?
とね  ……。
二葉  よく肥つてらつしやるぢやないの。
とね  あゝ、いやんなつちやふね。あたしが喋るつていや、みんな下らないことばかりなんだもの。
二葉  どうして? そんなことないわ。
とね  あたしが以前、どんなことしてた女だか、あなた知らないんでせう。
二葉  以前のことなんか、どうだつていゝぢやないの。
とね  どうせ知れるんだから、云つちまふわね。その方がさつぱりするから……。それとも、誰か話した?
二葉  お父さんから、あらまし聞いたわ。
とね  さう、そんならいゝけど……(葱を洗ひ終つて、起ち上る)ちよつと、そんな風に見えて、あたし?
二葉  見えないこともないわ。
とね  どういふとこ、例へば……?
二葉  むづかしいなあ、そいつは……。何処か、粋(いき)つていふのか知ら……。
とね  粋はよかつたね。はゝゝゝゝゝ。
二葉  (あつけに取られて、相手の顔をみる)
とね  大きな声を出すもんだから、びつくりしてなさるわ。此処にゐると、みんな声が大きくなるんですよ。近いと思つても、そら、周りが広いでせう。ちつとやそつと怒鳴つたぐらゐぢや、聞えないんですよ。
二葉  あたし、少し、あんたにお訊ねしたいことがあるの。今、お忙しい?
とね  お鍋を掛けつ放しにして来てあるんだけど……かまはないわ。どんなこと?
二葉  あなた、お父さんのお嫁さんになる気なくつて?
とね  なにかと思つたら、そんなこと……。こつちばかりさういふ気でゐても、しようがないぢやないの。
二葉  あなたがさういふ気でゐて下されば、あたし、骨を折つてよ。どつちでもいゝやうなことだけど、やつぱりさうと決まれば、万事に気持が違ふだらうと思ふの。あたしだつて、その方が、ずつと居心地がいゝわ。
とね  さういふ話、こんなとこぢや、ゆつくり出来ませんよ。たゞね、舁(かつ)ぐやうで変だけど、あたし、これまで、二度も人の世話になつて、二度とも、いざ正式につていふことになると、不思議によくないことがあるんですからね。
二葉  よくないことつて……?
とね  最初は、その男が急病で亡くなるし、二度目は、相手にほかの女ができて、こつちがゐたゝまらずに、出ちまふつて風でね。
二葉  ……。
とね  だから、このまゝでゐた方がいゝつていふ気もするんです。
二葉  ……。
とね  気をわるくなすつちやいけませんよ。あんたの御親切はよくわかつてるんだから……。
二葉  さうでせうかね。あたしは、さういふこと信じないけど……。でも、兎に角、さういふお気持伺つて、あたし、うれしくなつたわ。(間)お父さんは、優しい人でせう。
とね  さあ……、(笑つてゐる)
二葉  一緒にゐて、幸福だとお思ひになる?
とね  (とぼけて)幸福つて、どんなことをいふんでしたつけ……。
二葉  あら……。
とね  わかつてますよ、言葉の意味はね。でも、どんなことが仕合せかつて云はれたら、全く返事に困りますよ。うれしいと思つたことが、実は、不仕合せの種なんですもの。何時でもですよ、これは……。若い時分は、それや、違ひますよ。一度や二度は、あゝ仕合せだと思つたこともあつたでせう……。今ぢや、もう、男のそばにゐるつてことは、結局、障子に凭つかゝつてるやうなもんですよ。
二葉  それぢや、お父さんが可哀想だわ。
とね  それで丁度いゝんですよ。あんたには、お父さんのさういふところが、わからないんでせう。また、その筈だわ。
二葉  あたしにわからないとこつて……どんな風なの。教へて頂戴よ。
とね  それも、ひと口には云へませんけどね。つまりどつちかつて云へば、冷たいんでせうね。
二葉 そんなか知ら……。
とね  ……。
二葉  それぢや、あんたは、不仕合せね。
とね  さうとも限りませんよ。もつと不仕合せなことが、いくらだつてあるんですもの。云つてみれば、あたしに相当したところを、神様が探して下すつたんでせうよ。さう思つてますよ、あたしは……。まあ、この話は、これくらゐにしときませう。あとで、蓄音機、聴かせて下さいね。

上の方から、州太の声で「おい、なにをしてるんだ。早く飯にせんか」

とね  (眼だけで二葉に笑ひかけ)はい、はい……。(大急ぎで去る)

二葉は、それを見送つた後、一つ時、ぼんやり立つてゐる。
州太が、再び現れる。

州太  あいつと何を話してたんだい。
二葉  いろんなこと……。
州太  お前なんかと、話は合ふまい。
二葉  ところが、なかなか合ふのよ。
州太  へえ、そいつはどうかしてるね。
二葉  どうもしてないわよ。お父さんこそ、あの方をさういふ眼で御覧になるからいけないのよ。
州太  それはそれとして、飯にしようぢやないか。

二人は、どつちからともなく歩き出す。

二葉  (独言のやうに)さうか知ら……ほんとに冷いのか知ら……。
州太  (後ろを振り返り)なにが冷いつて……?
二葉  (突嗟に)山の水よ。
州太  (平然と)それや、冷いさ。

やがて、二人の姿が消えると、菰原献作が人夫を三人連れて、番小屋の裏から出て来る。

献作  ぶつくさ云はずに、まあ仕事を始めろ。

三人の人夫は、鶴嘴とシヤベルで櫓の脚のまはりを掘りはじめる。

献作  手間は安くなつても、仕事がねえよりやましだ。その代り、一日んところを二日かけちまや、もともとだ。

人夫三人は、調子を合せて歌ひ出す。

歌――もう出る、もう出るで、一年暮した
宝掘る気で、温泉掘つたりや
いくら掘つても、温泉は出らずにや
出たと思つたは、熊の小便
献作  よからう。こんだ、そつちだ……。
歌――もう建つ、もう建つで、半年暮した
家を建てるにや、道からつけろか
道をつけるなら、家から建てろい
人の通らん間に、独活(うど)が生えた……。

     三

八月の末の或る日。午後四時頃。
小舎の内部。事務所に充てた一室。
正面に二つの窓。遠く、浅間の全容。窓ぎはに製図用卓子。
左手は居室に通ずる扉。
右手、奥に大きな窓。そこに、事務卓子が二つ、向ひ合つて置かれてある。同じく右手、プロセニウムに近く、事務所の出入口。
壁には、地図、宣伝ポスタア、軽便の時間表など。その他、書類を入れた硝子戸棚。室の一隅に、測量用器具が雑然と立てかけてある。
二葉が事務卓子の一つに向ひ、ぼんやり頬杖をついてゐる。
右手の窓口に郵便配達夫の姿が現れる。

二葉  遅いのね、今日は……。
配達夫  数が多かつたからね。(郵便物を卓子の上に投げ出す)
二葉  (それを、一つ一つ撰り分け、そのうちの一通を手早く開封する)
配達夫  今日は、持つてく手紙はないかね。
二葉  待つてゝくれゝば書くわ。
配達夫  さういふわけにやいかねえよ。腹がすいちまつた。
二葉  食べるもんぐらゐあつてよ。
配達夫  明日は早く来るよ。(去る)

二葉は手紙を読み続ける。
右手の扉が開き、新井が飛び込んで来る。

新井  大将はまだ帰りませんか。
二葉  まだらしいわ。何か御用……?
新井  自動車一台ぢや、とても間に合ひませんね。今、一人駅で待つてるんですよ。
二葉  歩いて貰つたつていゝぢやないの、男の人なら……。
新井  印象が違ふでせう。一時間の軽便で、大概の人は、参つてますよ。
二葉  (手紙の上に眼をおとし)そんな人は、来なけれやいゝんだわ。
新井  しかし、大将も今日は有頂天ですよ。今年のうちに一人でも契約者が出来るなんて、考へてもゐなかつたでせう。なにしろ、まだ区劃割も……。
二葉  あんた、さうしてる暇に、お父さんを探してらつしやいよ。さつきの人達を案内してるうち、自動車を駅の方へ廻せばいゝぢやないの。
新井  さうしませう。あとでまた、蓄音機を借りてようござんすか。
二葉  いゝわよ。

新井が出て行くと、二葉は、また、手紙を読み耽る。
とねが、左手の扉から顔だけ出して、そつと、この様子を見てゐる。