浅間山

岸田國士

浅間山書籍情報

底本:「岸田國士全集5」岩波書店
   1991(平成3)年1月9日発行
底本の親本:「浅間山」白水社
   1932(昭和7)年4月20日発行
初出:「改造 第十三巻第七号」
   1931(昭和6)年7月1日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:kompass
校正:門田裕志

浅間山 10

岸田國士

州太  あの音を聴いて御覧……。
二葉  ……。
州太  なあ、おい、二葉……。
二葉  (慄然と、跳び退く様な身構へで)いやよ、そんな声して……、気味が悪いから……。
州太  なるほど、お前には、もうわしの云はうとしてることがわかると見える……。
二葉  お父さんつたら……。
州太  かういふ云ひ方をしては不味(まづ)いな。しかし、今日、家(うち)を出る時、お前はどうしてあんなにはしやいでゐたんだ。わしも、出来るだけ平静を装つてゐた。だが、お前にも、わしにも、あゝいふ事件が起つた後で、この思ひ立ちは少し不自然すぎた。おとねが、よく黙つてわしたちを出したもんだ。なあ、お前は、さう思はんか。
二葉  人からみれば不自然でも、あたしたちには、それが自然ならいゝぢやないの。悲しみや、不愉快を紛らす方法は、人によつて違ふんだわ。もう、そんな話、よしませうよ。折角、あたし、忘れてたのに……。
州太  わしも、早く忘れたい。出来ることなら、永久に忘れてしまひたい。今更、愚痴も可笑しいが、わしは、自分の最後の事業が、脆くも失敗に帰したことを、お前にだけは隠しておきたかつた。隠しおほすために、あらゆる苦心をしたんだ。それが、あさましい今日の結果だ。わしは、もう起ち上る勇気がない。いや、勇気はあつても、力がないのだ。これは、五十年間生きて来た男の、自分を識りぬいた揚句の声だ。誰が何んと云はうと、わしの精根は尽き果てゝゐる。神が若し、これ以上この男に寿命を与へるなら、その神こそ、無慈悲な悪戯者だ……。
二葉  いやだわ、そんなこと云つちや……。(間)さうよ、お父さんが、あたしの眼を、明るい方にばかり向けさせようとして下すつた、そのお心持は、むろん、よくわかつてゝよ。(間)それから、この先々、今迄のやうな生活には、もう堪へられないつておつしやることも、なるほど、さうかも知れないつて気がしますわ。しかし、なんにもしないで、生きてだけいらつしやることが、どうしておいやなの? お父さんさへ我慢して下されば、あたしが働いて、お父さんお一人ぐらゐ、楽に養つてあげられるわ。それも、あたしたちに取つて、結構面白い生活だと思ふわ。
州太  わしは、お前に慰めて貰ふ必要はないよ。また、さういふ資格もないわけだ、だつて、お前にも、わし以上の……わしとはまた違つた、なんといふか、心の苦しみがあるだらう。さつきお前は、今それを忘れてゐるなんて云つたが、そんなことで、満足なのか。日が昇ると、山を降りなけれやならんぞ。悲しみは、この下で、あの家で、空から遠いあの地べたの到るところで、お前を待ち受けてゐるんだぞ。お前は、今日、あの青木といふ男に、癒りかゝつてゐる心の古傷を、またあばかれたと云つたね。その傷口が、今度癒りかける時分に、何れまた、誰かゞあばかずには置かないのだ。さうして、次ぎ次ぎと、お前の生涯は、苦しみの連続だ。わしが保証しておくよ。
二葉  さう云へば、あたしが死にたくなると思つてらつしやるんでせう。大変な間違ひよ、お父さん……。(無理に笑ふ)をかしいわ。あたし……(また笑ふ。が、今度は、その笑ひが自然と泣き声に変つて行く)やつと、わかつたわ。お父さんは、あたしを……あたしを……此処まで……。
州太  さうだ。お前を一緒に連れて行きたいんだ。わしは、お前を置いて、一人で死にたくないんだ。こいつは、多分、我儘な親の願ひかも知れん。しかし、また、同時にお前を不幸の数々から救ふ唯一つの手段に遠ひない。なるほど、お前にはまだ、若い時代の希望とか夢とかいふものが、少しは残つてゐて、たゞそれだけが、お前の決心を鈍らせるだらう。思ひ出して御覧、お前がまだ小さい時分、よくお菓子をねだつた、それをわしは、いちいち、そんならと云つて食べさせたか。ところが、今になつて、お前は、このわしが無理だつたと思ふか?
二葉 いゝえ、いゝえ、そんなことゝは比較にならないわ。お父さんに……今のお父さんに、そんな権利はないわ。いやよ、あたし、いやよ、まだ死ぬなんて……。
州太  さうか。そんなら、わし一人を死なせるつもりだね。お前は、黙つてそれを見てゐる気か。
二葉  あたしが死なゝいつて云へば、お父さんだつて死にたくないとお思ひになるわよ。ねえ、さうでせう(父に取り縋り)それがほんとだわ。あたしをほうつて、そんなことなされない筈よ。あたしのことが心配でせう。(急き込んで)ねえ、心配だつて云つて頂戴……。あたし、まだ、お父さんに、いろんなことで力になつていたゞきたいのよ。ほんとよ。さういふ力なら、お父さんにあつてよ。あるどころぢやないわ。お父さんにしかない力よ、それは……。それも、大きな、大きな、強い強い力よ。
州太  駄目だよ、お前がなんと云つたつて……。仕方がない……。お前がいやなら、わしは、一人で、飛び込む……。
二葉  (はじめて気がついたやうに、恐怖に満ちた眼で噴火口の方をみる)
州太  お前を誘つたのは、わしがわるかつた。お前には、まだ、お父さんの苦しみも、よくわかるまい、それだけに、まだ、世の中といふものが、わかつてゐないのだ。一人の人間の命を、わしは決して軽く見てゐるわけではなかつた。殊に、お前にとつて尊いものを、わしが奪ふといふ法はない。わしは、わし自身の選んだ道を取ることにしよう。そこで、くれぐれもお前に云つておくが、山を降りたら、まつすぐに東京へ帰りなさい。決して、あのおとねのゐる家へ足を向けるんぢやないよ。あの女は、お前を、どんな方向へ引つ張つて行くかもしれない。あの女の言ふことは、取るにも足らないほど馬鹿げたことだ。しかし、あの女のすることは恐ろしいよ。恐ろしいといふ意味は、相手にきつと、心の動揺、つまり、何等かの影響を与へるといふ意味だ。あの女の何処かに、見どころがあるとすれば、わしにだけさう見えるのかもしれんが、そいつはつまり、不純なものゝ美しさだ。わしは、どういふわけか、さういふところにだけ心を惹かれたのだ。だが、お前は、お前こそ少くとも、純潔を保つてゐて貰ひたい。お前の過去は、二つ傷をもつてはゐるが、決して、それは汚れたものではない。その点、わしは、お前を信じ、また、お前のために矜りを感じてゐる。初めの男は、たゞ、お前を裏切つたのだ。二番目の男には、これは、お前といふ女がわからなかつた。何れも、お前に罪はなく、お前は、お前の心のやうに清浄無垢だ。
二葉  …………。
州太  たゞ、わしが、どうにも気がゝりなのは、お前が、その総てを、どんな男の手に委ねるかといふことだ。その男が、果して、お前の総てを、わしと同じ眼で見てくれるかといふことだ。
二葉  (訝しげに父の顔を見守る)
州太  こんなことを云つてゐても仕方がない。お前は、お父さんにかまはず、これから、来た道を下へ降りるといゝ。迷ふ気づかひはない。それとも、やつぱり、日の出を見てからにするか。もう、そろそろ、夜が明けて来た。
二葉  かうして、お父さんのお話を聴いてゐると、今、眼の前に起らうとしてゐることが、なんだか、自分とは関係のないことみたいな気がしますわ。そんな筈はないのに、どうしてゞせう。やつぱり、そんなことは起らないにきまつてるからだわ。さうよ。さ、もう、あたし、なんにも見なくつていゝから、すぐに引つ返しませう(父の腕を取り、無理に起たせようとする)ようつたら……。こんなところに、何時までもゐちやいけないわ。
州太  (やつと起ち上り)さ、お前は、此処にゐない方がいゝ。それぢや、二葉、気をつけて帰りなさいよ。(噴火口の方に近づいて行く)
二葉  (驚いて)お父さん……何処へいらつしやるの。(追ひ縋り、その腕を捉へて)いけません。止して、ね、止して……後生だから止して……。あゝ、誰か来て頂戴……。
州太  二葉……。(哀願するやうに)どうか、お父さんのすることを赦してくれ。こんな意気地のない父親は、天下に二人とはゐまい。だが、いくら蔑まれても、憎まれても、わしは、どうすることもできんのだ。(殆ど狂はんばかりに)あゝ、誰か、今、わしを殺してくれるものはないか……。
二葉  お父さん……。そんなに生きてゐるのが苦しいの? あたしが……。あたしがゐるつていふことが、なんにもならないほど苦しいの? それぢや、いゝわ、あたし、一緒に死んであげるわ……。
州太  え? ほんとか?
二葉  ほんとよ。えゝ。あたし、決心してよ。どうしたつていふんでせう……。自分でもわからないの。死ぬなんて、いやだと思つてたのが可笑しいくらゐだわ。もう、なんともないわ。たゞ、怖いだけよ。怖いわ、死ぬの……。でも、お父さんと一緒なら、怖くないか知ら……。あそこまで行つてみませうよ。(歩き出す)
州太  怖くはない、怖いもんか。さ、しつかりお父さんにつかまつておいで……。あの崖の端まで行つたら眼をつぶりなさい。
二葉  あたし、今から眼をつぶつてゝよ。あら、よく歩けないわ。(間)まだなかなかね……。
州太  まだなかなかだ……。ちつとも苦しくはないよ。煙にさつと包まれたら、それでもういゝんだ。からだが、ふはりと、宙に浮くだけだ……。
二葉  もうぢきでせう……。あゝ、あたし、いゝ気持だわ……なんだか、楽しみだわ……どんなところへ行くんでせう……。
州太  ……。
二葉  ねえ、返事をして頂戴よ。黙つてちやいやだわ……一人ぽつちみたいで……。
州太  (声が出ない。もう断崖の頂に来てゐる)
二葉  どうしたの、え、お父さん……どうして停つてるの……。震へちや駄目よ……。
州太  顫えてなんかゐないさ。わしも歩きにくいだけだ。
二葉  硫黄の臭ひね。息がつまりさうだわ。
州太  (決然と)さ、いゝか……。そらツ……(グイと、娘の背を抱へた腕に力をいれ、共々、前に躍り出ようとする)
二葉  (この瞬間、ぱつと眼を見開くと同時に、狂ほしく)ちよつと、待つて……(かう叫んで、側らの岩にしがみつく)
州太  (娘の手を握つたまゝ、励ますやうに)どうした!

長い、息づまるやうな沈黙。

やがて二葉は、岩から、ぢりぢりとからだを離し、こんどは、父の手を振り放すやうに、自分で、噴火口めがけて飛び込まうとする。

州太  (無意識に彼女の肩に手をかけ、鋭く)おい、待てツ!

が、二葉の足は、もう地上を離れてゐる。州太は、彼女の肩に手をかけたまゝこれも、引摺られるやうに崖へ姿を消す。

地平線上の空は、次第に明色を帯び、やがて、高山より見下ろす独特の曙光を反射しつゝ、山頂は、今や、黄褐色の地肌を生々しく現しはじめる。

その時、崖の一端に突き出た熔岩の鉛色の蔭から、二葉の姿が――それは恰も、「自然の意志」が彼女を起らせたかのやうに――ほのぼのと浮び上つて来る。
彼女は、半ば眠つてゐるものゝ如く、ぐつたりと、からだを岩にもたせかけるが、そこで、極めて徐々に両眼を見開く。

それと同時に、遥か向うで、今頂上に辿りつかうとする登山者の一隊が、所謂「御来光」の壮観を前に、高々と、何やらの歌を合唱しはじめる。