浅間山

岸田國士

浅間山書籍情報

底本:「岸田國士全集5」岩波書店
   1991(平成3)年1月9日発行
底本の親本:「浅間山」白水社
   1932(昭和7)年4月20日発行
初出:「改造 第十三巻第七号」
   1931(昭和6)年7月1日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:kompass
校正:門田裕志

浅間山 5

岸田國士

彼女は、また、奥へ姿を消す。
州太は焦ら焦らしながら、その辺を行つたり来たりする。
その時、菰原献作が、右手からはひつて来る。

州太  なんの用だ。
献作  ちよつと、旦那にお話したいことがあるんですが……。
州太  後にしろ。
献作  少し、急ぎますんで……。
州太  いゝから、後にしろつたら……。

献作は、一旦、外へ出るが、また後へ引つ返して来る。

献作  何時頃が、よろしいんでせう。
州太  明日にせえ、明日に……。今日はもう帰つていゝ。
献作  ですが、さういふわけに行きませんので……。
州太  なに? なにがさういふわけに行かん。お前は、近頃、横着だぞ。

献作は、ぢろりと州太の方をみて、そのまゝ出て行つてしまふ。
とねが現れる。州太は、急いで、その方に近づく。

州太  なんだ?
とね  話が面倒になつて来たわ。いよいよ、別れるとか別れないとかつていふところへ来たらしいの。二葉さんは、わりに落ち着いてますよ。物の云ひ方だつて、しつかりしたもんだわ。でも、今のうち、なんとか縒りを戻せないか知ら……。
州太  その方が、二人のためにいゝか、どうかだ。いや、あいつのために、いゝか、わるいか……。もう、わしが出てもよからうか。
とね  でも、二葉さんは、あの人に、こんなことも云つてましたよ。――「二人が今、こんな風になつたことは、当分父の耳にも入れずに置きますわ」つて……。
州太  なぜだ、それや……。
とね  あんたが心配すると思つてゞせう。
州太  うむ……。では、知らん顔をしてゝやらうか。
とね  その方がいゝかも知れませんね。諦めるつていふ点から云へば、自分一人の胸に畳んでおく方が、早く諦めがつくでせう。
州太  待て。それとなく出てつて見よう。

彼が、さう云つて奥へはひりかけると、事務所の外が、急に、ざわざわし始める。扉が開け放される。
見ると、数十人の人夫が、入口を塞いでゐる。その中から、献作が、一人前に進み出る。
州太は、無意識に、防禦の身構へをする。とねは、扉の陰にかくれる。

州太  お前たちは、何しに此処へ来たんだ。
献作  先月分の給料をいたゞきに参りました。
州太  (蒼ざめて)だから、さう云つてあるぢやないか、もう少し待つてろつて……。
献作  待てない奴がゐますんですよ。
州太  そんな奴は使ふな。
献作  旦那、それや、ちつと乱暴でせう。
声  やれ、やれ……。
州太  誰だ、今のは……?
声  大きなお世話だ。
献作  (こつちを向き)手前たちや、黙つてろ。待てない奴は使ふなと仰つしやつたところで、わしはじめ食へねえだから、困るだよ。それも、先の見込みがありや、山林(やま)を売つてゞも、こいつらを養つとくだけど、今んところ、温泉(ゆ)は出る見込がなし、土地も売れたつて話は聞かず……。
州太  そんなことはない。現に、今日も、買ひ手がついた。
声  その金はどうした。
州太  お前たちは、なんにも知らんのだから無理もないが、現金が手にはひるまでには、相当の手続がいる。
献作  そればかりでねえだ。噂によると、日疋の旦那からはもう、資本が下りねえつてこつた。
州太  誰がそんなことを云つた。
献作  悪いか知らねえが、郵便局の時田さんから聞いたゞ。
州太  あの狸め……。

笑声。

州太  (怒りを制して)みんな、よく聴け。わしは、決してお前たちを見殺しにはせん。
声  殺されてたまるけえ。
州太  無駄働きはさせんといふのだ。どんなことをしてゞも、報酬は払ふ。わしは裸になつても、お前たちが仕事をしたゞけの賃金は、完全に支払つてみせる。
声  そいつを早くしろ。
州太  たゞ、事業といふものは、事業が大きければ大きいほど、思惑通りには行かんものだ。そこを、みんなが辛棒して……。
声  そんな講釈は聴きたかねえ。
州太  さうか。よし。(黙つて、天井を見る)
献作  わしらも、無理なこたあ云はねえだよ。せめて、こゝ、十日分だけでもきちんとして貰へば、またあと十日ぐらゐは、待つてもえゝだ。なあ、おい(後ろを振り向く)
声  そんな腰の弱いこつちや駄目だ。

人夫達を掻き分けて新井がはひつて来る。はひつて来たが、彼は茫然と、この有様を見守つてゐるだけである。

州太  (新井に)わしには、もう、方法がない。お前、なんとか解決をつけてくれ。なにがどうなつてもかまはん。欲しいものは、みんな呉れてやれ。

新井は、州太と、人夫達の群とを見比べて、処置に窮してゐる。この時、静かに左手の扉が開いて、二葉の姿が現れる。彼女は、黙つて、父の傍に近づき、一言二言、何か囁いた後、人夫一同の方に向ひ、低いが、極めてはつきりと――