浅間山

岸田國士

浅間山書籍情報

底本:「岸田國士全集5」岩波書店
   1991(平成3)年1月9日発行
底本の親本:「浅間山」白水社
   1932(昭和7)年4月20日発行
初出:「改造 第十三巻第七号」
   1931(昭和6)年7月1日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:kompass
校正:門田裕志

浅間山 8

岸田國士

新井  そのほかに、確かに証拠になるやうなものはないんですか。
とね  書置き? そんなもの、ないやうね。探してもみないけど……。
新井  探して御覧なさいよ。いよいよさうときまつたら、僕、後を追つかけてつて、どんなことをしてゞも連れて帰ります。今から、警察や青年団へさう云つてやつても間に合ふからね。
とね  さうして、連れて帰つて来て、どうすんの。
新井  ……。
とね  どうせ死ぬ気でゐるものと、一緒に暮して、どうなるつていふの。馬鹿々々しい。
新井  大将は、そんな気の弱い人かなあ。
とね  娘のために、気が弱くなつてるのよ。今日来た男が帰る時だつて、なんのために駅まで送つてくの? 本当なら、挨拶だつてする必要ないんだわ。それに、どうでせう、あのお愛想のいゝことは……。あゝいふところをみると、可哀さうにもなるけど……。
新井  それやどういふ話なんです。お嬢さんのお婿さんになる人でせう。
とね  その話が駄目になつたのよ。
新井  へえ。
とね  あゝ見えて、二葉つていふ娘も、なかなか、初心ぢやないんだから……。
新井  東京にゐればさうなるでせう。郵便局の出戻りさんだつて、実に、人を喰つてるからなあ。でも、うちのお嬢さんは、あれとはまた違ふでせう。
とね  しつかりはしてゝよ。可愛いゝところもあるわよ。
新井  僕はずつと好きだなあ(舌を出す)
とね  早く行つて、助けて来るといゝわ。今なら、物になるかも知れないわよ。
新井  戯談は兎に角、僕、ほんとに行つて来ますよ。だけど、証拠でもないと、大将にどやしつけられさうだなあ。
とね  それやさうよ。だから、あんた、探して来て御覧よ。書置なら、大概、人の目につくところに置いたるから。
新井  呆れたなあ、こいつあ……。あんた、人を舁いでるんぢやないですか。
とね  さう思ふなら、それでもいゝわよ。あたしや、なんにも、あんたに頼んでるわけぢやないんだから……。
新井  兎に角、あんたは、心配なんですか、心配ぢやないんですか。
とね  あたしが……?
新井  たしかにさういふ気がするんですか、しないんですか。
とね  さういふ気がするから、するつて云つたゞけよ。それ以上、別に、なんでもないのよ。
新井  益々わからん、僕にや……。それで、あんたは、先生が死んで、なんともないんですか。さうして、ぢつとしてゐられるんですか。
とね  だから、どうにもしようがないつて、云つてるんぢやないの。わからない人ね。
新井  悲しくも、怖ろしくもないんですか。
とね  そんなこと、あんたが聞いてどうすんの。あたしがどう思つたつて、勝手ぢやないの。
新井  まあ、騙されたと思つて行つてみよう。僕は、心配な時は、心配な顔しかできない人間なんだ。笑はれたつて、かまやしない。(向うへ行きかける)
とね  誰も笑つてやしないわよ。お待ちなさいつたら、ちよつと……。
新井  ……。
とね  今の話は、みんな出鱈目よ。だつて、死にゝ行く人間が、明日の朝、峯の茶屋まで自動車を迎ひに寄越せつていふわけはないでせう。
新井  全くですね。
とね  それから、二葉さんは、二三日うちに、また東京へ出ることになつてるのよ。
新井  ほんとですか。
とね  がつかりしたでせう。
新井  よして下さい、さういふ変な話は……。
とね  あたしも、ことによると、小諸へ帰るわ。
新井  そいつも、嘘らしいな。
とね  見てればわかるわ。また芸者になるのよ。
新井  先生と別れてかね。
とね  むろんよ。さうしたら、あんた、遊びに来てくれるわね。
新井  どういふもんかな、そいつは……。
とね  どうもかうもないさ。さうなれや、あたしは、誰のもんでもないんだから……。
新井  第一、そんな余裕はないですよ。月二十円の小遣を貰つてるんぢや……。
とね  そこは、あたしがうまくやつたげるわよ。知らない仲ぢやなし、安心してらつしやいよ。
新井  だけど、その話は、まだ早いや……。
とね  夜露がひどいから、家ん中へはひりませうよ……。
新井  ほんとに、大丈夫なんだらうな、先生たちは……。
とね  まだ、そんなこと考へてんの。御覧よ、今頃は、二人で、六里ヶ原の月でも見ながら、いゝ気持で歌を唱つてるから……。(さういひながら、奥に姿を消す)